しらかわ読書会

福島県白河市で読書会を中心にいろいろやっています。

井上ひさし『自家製 文章読本』(新潮文庫・1987) 2018.04.18 18:39

先月仙台に旅行に行った際、仙台文学館に立ち寄った。旅行先では博物館に行くことは常であるけれど、文学館に行くことは少ない。今回は同行した人の希望により、足を向けたのだった。仙台文学館の展示で、ようやく井上ひさしが初代・仙台文学館長であったということを知った。
日本民俗学を学びはじめる前の専攻は、近代日本文学だった。平均よりも文学作品は読んだのかもしれないが、それはあくまで活字離れの現代におけるものでしかない。昔から怠惰であり、文学史や作家論を好まず、テクスト理論(ことばあそび、とルビでも振ってやりたい)にはまった。それが誰もが一度は通る道だったとしても情けない。
 
とにかく努力をよくし得なかったため、文学専攻でありながら、とにかく作家を知らない。井上ひさしも未読だった。そんな中、文学館の展示で、こんな一文を見つけた。
 
「井上流本の読み方十箇条」の巻
その一、オッと思ったら赤鉛筆
その二、索引は自分で作る
その三、本は手が記憶する
その四、本はゆっくり読むと、速く読める
その五、目次を睨むべし
その六、大事な事典はバラバラにしよう
その七、栞は一本とは限らない
その八、個人全集をまとめ読み
その九、ツンドクにも効用がある
その十、戯曲は配役をして読む
井上ひさし『本の運命』より)
 
これは自分にとっては大切な経験になった。このブログは「その二」「その三」「その八」の実践だ。実際にやってみると思いのほか続くもので、とりあえず飽きるまで続けてみようと考えている。そう影響を与えられてしまうと、井上ひさしの著作にも手が伸びる。伸ばした先が『自家製文章読本』である。
 
面白いこと、興味のあること、それ以上にわからないことの多い本だったが、特に興味を引いた部分は、柳田國男折口信夫に関する言及である。なかなか長く抜き出してしまったので、ここでは折口に関する記述を紹介したい。折口と言っても、井上ひさしが言及しているのは、このブログで扱っているような民俗学者あるいは古代研究者としての折口ではない。「校歌作詞家としての折口信夫」である。
 
「物を書いて生計を立てている、いわぬるプロのなかには(あまり感心したことではないけれど)、冒頭の一句を、突破口を、あらかじめこうだと決めておいて仕事にかかる人も少なくない。たとえば校歌作詞家としての折口信夫がそうであった。折口信夫は三十三校の校歌をつくったが、半数以上の十四が同じパターンを持っている。すなわち三番仕立てにして、一番を朝、二番を昼、そして三番を夜にするというのがそれである」(159p)
 
私は折口が作った校歌を井上ひさしがこの後に引用した石川県の大聖寺高等女学校のもの以外知らないので、今はそうなのか、と思うよりほかない。気になっているのがパターンによる記述がはたして「校歌作詞家としての折口信夫」に限定されるものなのか、ということだ。これは井上が知らぬ、もしくは気づかぬだけで、実は民俗学者としての、古代研究者としての折口信夫にも、それぞれのパターンがあるのではないか。
 
この本は、ほかにも面白い記述が多い本なので、また後日、紹介をしてみたい。