しらかわ読書会

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坂口安吾「堕落論」(『堕落論』角川文庫) 2018.04.30 22:32

坂口安吾堕落論」(『堕落論』角川文庫)

先日の読書会で扱った「堕落論」は、坂口安吾の「歴史」と「天皇」に対する認識が面白い。
「政治家の大多数は常にそう(注・独創をもたずただ管理し支配する)であるけれども、少数の天才は管理や支配の方法に独創をもち、それが凡庸な政治家の規範となって個々の時代、個々の政治を貫く一つの歴史の形で巨大な生き物の意志を示している」(93p)
「政治の場合において、歴史は個をつなぎ合わせたものでなく、個を没入せしめた別個の巨大な生物となって誕生し、歴史の姿において政治もまた巨大な独創を行っているのである」(同前)
 
この作品は、全体が非常に回りくどく、行き戻りを繰り返す。よくわからない部分も多い。
 
安吾のいう「歴史」はいわゆる歴史(history)ではないらしい。「歴史は個をつなぎ合わせたものでなく、個を没入せしめた別個の巨大な生物となって誕生」すると述べている。
 
そんな「歴史」の例として、「武士道」や「天皇」、「美しいものを美しいままで終わらせたい」という願いを挙げている。「天皇」に関する記述を抜き出してみよう。
「私は天皇制についても、きわめて日本的な(したがってあるいは独創的な)政治的作品を見るのである。天皇制は天皇によって生み出されたのではない」(同前)
「(注・天皇は)社会的に忘れた時にすら政治的にかつぎだされてくるのであって、その存立の政治的理由はいわば政治家たちの嗅覚によるもので、彼らは日本人の性癖を洞察し、その性癖の中に天皇制を発見していた」(94p)
天皇制自体は真理ではなく、また自然てまはないが、そこに至る歴史的な発見や洞察において軽々しく否定しがたい深刻な意味を含んでおり、ただ表面的な真理や自然法則だけでは割り切れない」(同前)
天皇制の否定とも取られかねない文章である。戦後という次代に書かれたものであるということも考えれば、そう読むのも自然かもしれない。が、「深刻な意味」を読みとり「割り切れない」態度を取る安吾は、天皇制それ自体を否定しようとしている訳ではない、と読んでおきたい。
 
いちいち引かないが、「武士道」と「美しいもの」に対する態度も同じくである。否定しきれていないし、するつもりもないのだろう。
「戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄のごとくではあり得ない。人間は可憐であり脆弱であり、それゆえ愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。人間は結局処女を刺殺せずにはいられず、武士道をあみださずにはいられず、天皇を担ぎださずにはいられなくなるだろう。だが他人の処女ではなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人のごとくに日本もまた堕ちることが必要であろう」(101p)
安吾のいう「堕落」についてはうまく読み取れていないが、「歴史」に「個を没入せしめ」られるな、という意味だと捉えている。「自分自身」の「処女を刺殺」し、「武士道」や「天皇」をあみだせ、という。この三つが「歴史」の言い換えであることは前に述べた。つまり、自分自身の「歴史」を生きろ、と言っている。
 
そして、それらの個人的な「歴史」は「堕ちる」ことでしか得られない。なぜか。「少数の天才」によって創られた「歴史」の一部として「没入」せられてしまうからだ。
 
「人のごとくに日本もまた堕ちることが必要であろう」とあるとおり、「日本」という「歴史」も安吾には、誰かが作ったシステムの一部とされているように思えるらしい。
 
安吾のいう「歴史」は歴史ではない。この作品を読む限りにおいては、少数の天才が作り上げるシステムのことを指しているように思われる。また、「堕落」もその字面どおりに捉えてはいけない。安吾のいう「堕落」は、「巨大な生物」への没入状態からの離
脱と、その後の自らの「歴史」を創ることに向かうのだから。それは決して落ちぶれるとか、無秩序だとかを指すのではない。
 
久々に坂口安吾を読んでみると、こんなに訳がわからない人だったのか! と驚かざるを得ない。